スキンケアには、どこまでの可能性が広がっているのか?
そして、何に対しての可能性なのか?
その「なに」は、肌へのアプローチの目的を指します。
それは、昔から今に至るまで変わっていません。
端的に言えば「美肌」。
ここで、日本のスキンケアの歴史を少しお話します。
美肌への憧れ。
それは、大昔の日本書紀にも記述があります。
女帝の持統天皇に、唐から「おしろい」が贈られ、白い肌への憧れがこの頃からあったことが分かります。平安時代の貴族は、白粉で顔を白く塗り、日本の化粧文化が始まります。
江戸時代になると、化粧文化は、庶民へと広がり厚化粧から素肌の美しさへと美の基準が変わります。そして、素肌を美しくするために、スキンケアアイテムも生まれます。
洗顔には「ぬか袋」、化粧水は「へちま水」、パックは冬瓜を煮詰めた汁。美容液は、コラーゲンを含むイノシシの爪を煮詰めたものなど様々なアイテムが登場し、美肌の指南書があふれ、流行りの化粧水を買い求めようとする、今と変わらない風景がそこにあります。
スキンケアの始まりは、美意識が厚化粧から素肌美へと変化したことで生まれました。
ですから、化粧文化の中にスキンケアは含まれています。
「美容=スキンケア」ということです。
肌へのアプローチの目的は、「美容」。それが皆さんがお持ちのイメージであり、社会通念です。それは美意識の中で育まれた長い歴史を通し、非常に強いイメージの固着として私たちにしみ込んでいます。
私が提起したいのは、スキンケアの目的や意義を大きく見直してみる必要があるということです。スキンケアを「肌を美しく保つ」という視点でみると、対象となる皮膚の限られた側面しか見えません。
例えば、「肌を美しく保つ」という目的なら、その命題はおのずと限られてきます。
・いかに、新陳代謝を促進させるか
・潤いが不足すると、どのような成分で補うのか
・紫外線や乾燥から肌を守るために、何が必要なのか
・肌を白くする成分はないのか などなど。
もちろん、上記も重要なポイントではあります。
ですが、美容という目的に沿った溢れる情報と新たな商品開発という動きの中で皮膚を捉えるのは、あまりにも偏り過ぎているのです。皮膚を美容の対象というイメージから外し、単純に臓器として見ると、新しい扉が開きます。
サランラップほどの薄いシートの皮膚。身体全体を覆うその特異な臓器の働きは、健康面だけでなく、感情や思考にまで影響を与え、驚くことに、身体の形状や機能にまで及びます。
「皮膚を知る」という命題で、医療だけでなく様々な分野で研究が進み、その知識が公表されているにもかかわらず、それが、皮膚にアプローチする具体的な方法として、活かされていないのが現状です。
皮膚は、手で触れることができる臓器です。スキンケアを、美容目的として捉えるだけでなく、臓器ケアという新たなイメージまで広げると、その効果は、心身にまで及びます。
顔の皮膚。それは、全身を覆う皮膚を調整する起点です。その皮膚を健康に保たせることが、皮膚という臓器ケアのポイントです。
そのポイントは、顔の皮膚の自由な伸縮を妨げる不純物を取り除くことです。皮膚表面の汚れを取り除くということだけではありません。
皮膚を構成する真皮・基底層・角層は、それぞれ別々の伸縮をしています。それを妨げる微細な不純物が固着し、その動きにロックをかけています。
そのような皮膚内部の状態をイメージし、考案したのが「カタチ洗顔」です。
臓器としての皮膚の健康が保たれれば、自ずと素肌の状態も良くなります。そして顔そのものの形状や身体のフォルムにも変化が現れ、アンチエイジングの手法としても活用できるのです。
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